なんでもなくたっていいよ
「ただいま」
夕飯の匂いに導かれるようにして家に帰ると、テーブルの上にご馳走が並んでいたので、キィニチは内心少し焦った。——今日は、何かのお祭りだっただろうか? いや、祭りに限らず、何か祝い事が。
「おかえり、キィニチくん」
そんな焦りなどつゆ知らず、女はキィニチに向かって優しく微笑んだ。
「ご飯、今ちょうどできたところなの。手洗ったら、すぐ食べよう」
「ああ。すぐ行く」
玄関先で軽く埃を落として、靴を整え、手を洗う。腕輪を外して適当な場所に置くと、アハウが怒り出した。
「おいクソキィニチ! こんなご馳走が広がってるってのに、オレに一口も食わせない気か⁉︎」
「そうだな、お前には贅沢すぎるご馳走だ。ナマエ、この料理……今日は、何か特別なことでもあったのか?」
眼前に並べられた料理をじっくりと眺める。柔らかく煮込まれた肉が、辛そうなスープの中でてりてりと光っている。ごくりと唾を飲み込んだ。肉は恐らくキィニチが狩ってきたものであるから、特別高価な食材を使っているわけではないだろうが、時間のかかる、手の込んだ料理であることが伺える。しかも、一息吸い込むだけでキィニチの好みと分かってしまうような味付けの。
きっと何か特別なことがあったのに、それを見逃していたに違いない。キィニチはそう思って、返事を待つ数瞬の間に、叱られる構えをとった。
「ううん、なんでもないの」
「へ」
しかし女はこともなげにそう言った。間抜けな声が出る。
「なんでもないけど、作りたくなっちゃったから。ほら、ちょうどお祭りとお祭りの真ん中の時期で、しばらくなんにも無いでしょ。だから、たまにはいいかなって」
「へーん、おいちびニチ、気の抜けた声出しやがって。ご馳走にビビっちまったのか?それならこの聖龍クフル・アハウが——あ! おい!」
腕輪に空の器を被せる。まだ何か喚いているのがくぐもって聞こえてくるが、幾分かマシになった。
「おしゃべりさんは後でにして、食べちゃおっか」
「そうだな。あいつは後ででいい」
そう言うと、女は指先をふわりと合わせた。テイワット式の祈りの形だ。
「いただきます」
「いただきます」
口に含んだ肉からは、じゅわりと肉汁が溢れていく。なんでもない日にも、特別な食事をしたっていい。失踪の直前、母はそんなことを言って、特別な日にしか食べない肉をキィニチにだけ食べさせた。幼い息子を置いて出ていくことへの贖罪だったのか、それともその日、なにかが起こることを予見して——。
「おいっ! 出しやがれ! 我輩にも食わせろ!」
そんな考えたってどうしようもないことは、アハウが出した器を貫通するほど大きな声によって霧散した。キィニチは仕方なく一度立ち上がり、被せられた器の上に、さらに大きなボウルを被せてやった。