この心臓が止まるまで
死んだことはあるかと聞かれてはいと答えると、彼は意外そうに目を瞬かせた。そしてほんの少し顔が曇る。この数瞬の間に冗談ではないらしいと判断されたのか、彼の声は薄らと乾いていた。
この間のアビスの侵攻かと聞かれていいえと答える。夜巡者の戦争に参加したことがあるのかと聞かれてまた頭を振る。
少し考えて、彼は「この世界に落ちたときか」と聞いた。はいと答える。
生ぬるい白昼夢を見る。巨大な質量が、ゆっくりと腹を押し潰していく。人体の構造なんて勉強したことないからよく分からないけど、色んな内臓だとか骨だとかが、簡単に潰れていく感じがする。胃が押し潰されて、あ、吐くと思ったが、少量を吐瀉しただけであとはぶちゃっと嫌な感覚が腹の中ににぶちまけられただけだった。子供の頃、無意味に枝や花を手折っていたのは残酷だったなと思う。ぱきぱきと軽やかな音がして、小枝みたいに肋骨が折れていく。もう息を吸えない。吐き出すとも取れない濁った悲鳴で、空気が外へと押し出される。ゆっくりと死を知覚していく。果実が潰れた音と表現するわけにもいかない。内骨格の生物が潰されていく音だ。蟻を踏み潰したのは残酷だったなと思う。でも気付かずに踏み潰してしまったのなら仕方が無かったなとも思う。多分ぜんぶ仕方が無いのだと思う。胸の中心からぷちゅっと柔らかな音がして、終わる。
その時のことを覚えているかと聞かれて、はいと答える。それは、優しく聡明な彼にとって最も残酷な答えだったらしい。私にも分かりやすいくらいに彼の顔が歪んだ。
外の世界からやってきたのだと明かして以降、元の世界に戻れるようにと、彼は実に協力的だった。私はいつの間にかとんでもない代償を支払っていたのか、それともこれから支払わされるのか。分からないけれど、きっと彼と私の思考の結果は、等しく同じ手順を踏めば良いのだろうと示している。
簡単なことだ。死んだらいい。なるべく、似たような状況で。
「まだ、痛むか」
いいえと答える。そうか、と心底ほっとしたような声色で返す彼は、きっと今も胸の痛む日があるのだと思う。ただ冷や汗をかきながら、痛みの過ぎ去る時を待つ彼を想像する。たまらなく悲しくなってしまって、私は彼を抱き締めた。
「どうしたんだ」
優しい声がする。まめと傷痕ででこぼこの手が、ゆっくりと私の頭を撫でる。
怖かったかと彼は聞いた。なんでもないと言えば、彼はもう片方の手で私を抱き返してくれた。背に置かれた手から、一度破裂した心臓へと体温が伝わる。ぽっかり空いた彼の胸を、私は埋められないのが苦しかった。抱き締める力を強めた。苦しいくらい。