幸せは歩いてこないから
「あれが墓標だ」
彼が指差したのは少し大きな石だった。墓と呼ぶにはあまりにも簡素だ。が、ナタにはあまり墓標を作る文化が無いことを鑑みると、これは幼かった彼なりの追悼だったのだろうと思う。崖を吹き下りた風がひゅうと荒ぶ。思わず目を瞑った——拍子に、小さく突き出た岩に躓いてしまった。バランスの崩れた体がぐらりと揺れる。倒れる——と思うと同時に、ぐいと力強く引き寄せられた。
「キィニチ!」
「足元が悪いから、気を付けてくれ」
「う、うん。ありがと……」
感謝の言葉は尻すぼみになってしまったが、彼の耳にはしっかりと届いていたようだ。彼が小さく頷くと、私を支えてくれた腕は静かに離れていった。
彼に言われた通り、一歩、一歩、踏みしめるようにして歩く。靴の裏が土を踏みつけるごとに、周囲の空気は重たくなっていくようだった。どんよりと曇った空が憎らしい。——今日は、キィニチの誕生日なのに。
墓参りに着いてきたのは初めてだった。誕生日なのだからどこか好きなところに行こうと誘ったら、「墓参りに着いてきてくれないか」と言うので仰天した。なんで誕生日に墓参りなのかという困惑が顔に出ていたらしい。苦笑した彼が「今日は父親の命日なんだ」と言うのでさらに仰天した。そんなこと聞いたことが無かったので。
墓に近付いてみると、遠くから眺めたときよりさらに小さく見える。墓標と説明されていなかったら蹴っ飛ばしてしまっていたことだろう——いや、知っているからこそ蹴っ飛ばしたくなるだなんてことは決して、無いが。
「花を持ってきてくれたんだったな」
彼の声が柔らかだったので、私は慌てて首を縦に振った。隠すように持ち歩いていた花束を、そっと墓標の前に横たえる。花束と言ってもナタで最もオーソドックスな弔花で、数本のコスモスを束ねただけの、これまた簡素なものだ。彼がほんの少しでも顔を曇らせたら、花には申し訳ないけれどもその場で踏み躙ったって良いと思っていた。そんな花束がここにあるのは、彼が真反対の反応を示したからだった。
「初めてだな、花を手向けてもらうのは」
愕然とするほどだ。彼の表情は穏やかで、汚れを払う手付きはあんまりにも優しい。優しいひとなのだ。優しい彼が好きだ。けれども彼を「優しい人」たらしめた元凶については、どうしたって許すことはできない。
「今日は、話したいことがあってここに来たんだ」
彼は胸に手を当て、祈るように目を閉じた。私もそれに習い、ぎゅっと目を瞑る。
二度、三度、どこか張り詰めたような深呼吸が聴こえた。何にもしない私の心臓がバクバクと鳴る。これから何を話すのか、知っている。話したところで、肯定されるわけでも、否定されるわけでも、ましてや非難されるわけでもない。それでも彼の呼吸音は苦しげで、私は服の裾を硬く握り締めた。
「ナマエ」
名前を呼ばれ、恐る恐る瞼を持ち上げる。と、差し出された手のひらがあった。
顔を上げれば、彼と目が合う。彼は優しく微笑んで、「ほら」と言った。されるがままに取られた手を、彼はぎゅっと握り込む。そっと握り返せば、ふ、と柔らかな吐息の漏れる音が聴こえた。彼は、真っ直ぐに前を向いていた。
「——結婚する。ナマエと。」
力強い声が言い切る。
「父さんのようにはならない」
一瞬、繋いだ手がぶるりと震えた。彼は恐らく、いや間違いなく、不安なのだ。虐待とは、連鎖するものだから。
「絶対に、ナマエを幸せにしてみせる」
それは宣誓のようだった。力強く言葉を紡ぐ彼は新郎で、握った手に力を込めるばかりの私は新婦で、きっとこの墓標が神父さまだった。彼の父は許されるべきではないし、私は絶対に許さないし、彼もきっと許していないけれど、それでも彼は未来を見ている。過去を飲み込んで、受け入れて、未来へと進もうとしている。
「——お義父さん、私も」
思わず、言葉がまろび出ていた。推敲されていないからこそ、原始的で、透き通って、純度の高い言葉だった。
「私も。私が、キィニチくんを幸せにしてみせます。今まで想像もつかなかったくらい。これからも、誰にも想像のできないくらい」
力を込めすぎて、繋いだ手は白くなっていた。それを、彼は黙って受け入れていた。
「キィニチは、幸せにならなくちゃダメなの」
「ナマエ——」
「私が幸せにするんです」
「ナマエ、どうして泣いてるんだ」
指摘されるまで、私は頬を流れる雫に気付いていなかった。風に冷えきった頬をぼろぼろと溢れ落ち、雫は地面に吸い込まれていく。
「あ、あはは、なんでだろ」
急に喉元の言葉たちが引っ込んで、私は急いで涙を拭う。誤魔化すように笑みを浮かべながら——彼の顔を見て、ちゃんと笑ってしまった。
怪訝そうにこちらを覗き込む彼の頬に、一すじの涙が伝っている。そのことに彼は、全く気が付いていないのだった。