明けの明星
「あなたと私とが隣合っているのって、そんなに変なことかしら」
思っていたよりも、やけに掠れて、弱々しい声が出た。静かな波の音にさえかき消されてしまいそうだ。月に惹かれた心音みたいに、海が盛り上がって、押し寄せて、還っていく。夜の海は怖い。と思う。特に理由は無いけれど。
「全く違うもんだからねぇ。生きてるか、そうじゃないかすら」
「あなただって生きてるじゃない。今、私と喋っているのは誰なの?」
「霊力の高い主なら、未顕現のオレと喋るのもわけないと思うけどね、これホント」
「ねえ、そんなことを言っているんじゃないわ——その唇を桜色にするもの、あなたが怪我をしたら溢れるもの。全てあなたの心が動くから、流れるのよ」
笹貫は目を伏せた。ここからでは、彼の心音は聞こえてこない。波に飲まれて消えてしまうようだ。貝殻を耳に当てたとき、波の音として聴こえてくるのは心音だというのに。
「オレは、ただの意思ある鉄塊だよ」
「あら、私だってただの意思ある有機物だわ」
「有機物と無機物は違う」
「古刀っていうのは、本当にいろいろな成分が混ざっているんでしょう。私が流す赤色の血だって、鉄の味がする」
口を開けて、と言うと、笹貫は素直にそれに従った。真っ白に磨かれた歯が、ぎゅっと詰まって並んでいる。親指でその歯列をなぞって、他の歯に比べると盛り上がった犬歯に一度止まった。案外鋭いものらしい。その切っ先に指の腹を押し当て、ぐ、と力を入れる。ぷつ、と軽い音とともに呆気なく鉄の味は流れ出して、けれど、その色は黒黒と飲み込まれてよく見えなかった。
「私とあなたって、あんまり違わないもののような気がするの」
彼の瞳がじわりと熱に浮かされていくのが見て取れる。一滴か二滴分くらいしかないだろうに。刀剣男士にとって、審神者の血は甘露だ。ただの甘美な露の顔をした、毒だ。
彼は己の指を反対側の犬歯に押し当て、ぽた、と滴るそれを私の唇に押し付けた。舐めとると、煮詰めたメープルシロップと蜂蜜を一緒くたにしたものを、そのままお酒にしたような味がする。ツツジの花の蜜くらいの量を飲み込んだだけで、頭の奥がつんと痺れるような感覚だった。
審神者にとって、刀剣男士の血は甘露だ。人魚の肉をどろどろに溶かしこんだような毒。
「ね、もっとちょーだいよ」
指の傍で舌が動く。ぎ、と親指を引き動かされて、焼けるような痛みの面積が広がっていった。
「ひどいわ。痛いのに」
「……はは。甘いね」
頬を染めて笑うから、どうしようもない愛しさが込み上げてくる。縹はなだ色の瞳が細く幸福を示して、それがひどくひどく心を締め付けるようだった。
「笹貫」
「なーに」
最後の一雫を溶けかけのアイスみたいに舐めとって、解放された親指の傷はもう塞がっている。笹貫の指の傷も、もう綺麗さっぱりだ。笑えてしまう。笹貫は元から人間じゃないし、私もとっくに普通の人間じゃないのだ。
「海に入らない? ちょっとだけ」
「えー、オレがいるのに?」
「あなたといるからよ」
ちゃぷ、と足元を濡らして引き返していく波を追いかけ、膝の辺りが浸かるところまで笹貫を引っ張った。この海は温かい。真夏日のプールくらいの質感を持って、沖へ沖へと私を連れ去ろうとする。
「裸足でしょ? ウニとか踏んじゃうかもよ」
「あなたの海だもの。私が痛がるようなことはしないわ」
「……どうだろ」
液体みたいになった砂は少しだけ私を飲み込むけれど、優しさか哀れみか、数センチ埋まるだけで止まって、私はまだ地上に留まっている。ウニもいなければ、カニもいないし、貝殻だってひとつも落ちていない。この海に命の気配なんて無い。笹貫という大きめの無機物と、もう生きているのかさえもよく分からない私が、仲良くやっているだけ。
始源の海とはこんな感じなのかしら、と考える。鉄の溶けた猛毒の海と、それを浄化していくシアノバクテリア。
「ねえ、地球で初めての生き物は、ひとりっぽっちで寂しくなかったのかしら。寂しかったから進化したのかしら」
シアノバクテリアの光合成によって作り出され酸素は、誰よりも先に、その鉄を抱き締める。抱き締めたまま、海の静寂しじまに心中しに行く。
「私だったら寂しいわ。寂しいから、進化すると思う」
笹貫の神域は寂しい。黒洞洞たる海、真っ新な砂浜、鬱蒼とした竹藪。水平線は一方向に続いていて、海岸線は環とならない。
「……逃げたい、とか思わないワケ?」
「こんなに暗くちゃ、出口なんて探せないもの」
「もう逃がしてやれないよ、オレ」
「構わないわ。だって」
そこで一度言葉を切った。目の前の男は、どうしてか泣きそうな顔をしている。
頬を包み込んで彼の顔を引き寄せ、こつんと額を当てた。キスできそうで、口元だけがちょっとだけ届かない。瞳の中に珊瑚礁を見て、そこにクマノミのいないことを微かに惜しむ。
「好きよ、笹貫。あなたが好き。『わっぜぇ好き』だから、何をされたって許してしまうの」
小さな瞳孔が、さらに小さく縮こまった。ありもしない愛の正体に怯えているかのようだ。
ああそうだ。ようやく分かった。本当に、そういうことだったのだ。このひとは愛されることを恐れている。愛をこんなにも求めながら、実際それを己に向けられたとき、怖くて怖くて仕様がないのだ。
彼は涙と共に桜の花弁を零した。はらり、はらり、涙は波間に消えていくけれど、花弁は波をいなしてふわふわと漂っている。
「オレ、幸せにできる自信なんて無いのに——」
「今、十二分に幸せよ」
潮風にベタつく笹貫の額に、そっとキスをした。真珠のような涙の粒が現れては落ちていく。頬を一度むにとつまんで解放すると、海の形がほんの少しだけ見やすくなっていることに気付いた。
「見て、夜明けだわ」
太陽はまだ水平線に現れない。水面はまだ輝かない。薄明にも届かぬような深縹こきはなだが、夜を薄めた、ただそれだけ。
それだけ、それだけなのだ。
「ねえ笹貫、私たちきっと、大丈夫なんじゃないかしら」
広い海を指すには人差し指なんかじゃ足りない。腕をいっぱいに広げ、ざぶざぶと水平線を目指して、胸の辺りまで浸かっている。前進を阻む塩水はずしりと重い。けれどもガラスの靴のように透明だ。そんなこと、真夜中のままでは知らなかった。知り得なかった。
「私たち、きっと大丈夫なのよ!」
なんで、なんて野暮なことを笹貫は聞かなかった。困ったような、何か眩しいものを見るような、そんな目で私を見て、そして、ほころぶように笑う。
沖はその創造主すら拒むらしい。かさを増していく塩水に足をもつれさせながら、笹貫は私を勢い良く抱き締めた。
「わ、ぶ」
水と空気の境目で視界がぶれる。ばしゃん、と間抜けな音とともに静寂しじまに沈んだ私たちは、その底で静かなキスをした。苦しくは無かったから、たぶん、一瞬。
溺れる、とは思わなかった。私が望めば、おそらく水の中ですら呼吸できるのだという確信があった。進化は不可逆だ。私はえらを手に入れることは出来ない。けれど、このきらきら揺れるカーテンの、その向こう側でさえも愛せるならば、きっと私はくじらにだってなれるし、魚竜にだってなれるし、人魚にだってなれるのだ。
水底に立てば、まだるっこしい人の姿のままだった。肺いっぱいに窒素やら酸素やらアルゴンやらを吸いこんで、私たちは口を大きく開けて笑う。
「捨てたら承知しないわ! 一生誰にも拾われない呪いをかけてやるんだから!」
「オレが捨てるわけなくない?! じゃあオレを捨てたら、捨てたら……嫌いになるから!」
「何よ、私のこと大好きなくせして!」
「そ〜だよわっぜぇ好き! だから!」
だから捨てないで。髪から滴る水が頬を伝う。
はは。なんて、ジョーダン。
可哀想な笹貫が必死で誤魔化そうとするから、私はそれに乗ってあげることにした。水面みなもは満天の星のように輝いて、どぼん、水飛沫を浴びてしまえば、涙なんて透明な液体で、ヘモグロビンを濾しただけの血液で、ただの海水で、私は。