拝啓、前略、ばーか。敬具
なんだこれ。
久々に机をどかして掃除していると、小さな鍵を見つけた。数秒考えて、思い出す。ウン年前に失くした机の一番上の段の引き出しの鍵。確かこんなやつだった気がする。
思い出してしまえば気になるのが人間というもので、内容物もすっかり忘れてしまった私は、それをそっと鍵穴に差し込んだ。鍵穴は何の抵抗も無くするりと回り、引き出し自体もそれほどのがたつきの無いまま引っ張り出される。
そこにあったのは、古ぼけたクッキー缶だった。ちょっとかび臭い。再び首を傾げかけて、とりあえず開けてみることにした。端に指を引っかけ、ギシギシ押し上げていく。
「…………ぅ、わっ!」
格闘すること二十分、クッキー缶は突然開いて、ポテチのごとく白い紙を舞わせた。
書斎に散らばったそれらは全て白紙の紙のようだ。これもまたウン年前のコピー用紙? らしく、全て丁寧に二つ折りにされていた。
「……あぁ、」
それの一つを開いてみて、胸の中に温かい感情が満たされてくる。これは全部、豊前江からの手紙だった。この白紙の紙の群れでなく、その内側にはさまれた、低彩度の押花、それの原型である。
✳︎
うちの本丸の豊前江は、顕現当初、どうしてか喋ることができなかった。うー、とか、あー、とか、声自体を出すことはできたが、言語を解せない。だから、書くこともできない。
篭手切江が常に隣にいて、何か伝えたいことがあれば、ものすごく頑張ってジェスチャーで伝える。それでも伝えられないことがあると、周囲に迷惑をかけるのが嫌なのか、しょんぼり諦めてしまう。そんなときは背中をゆっくり撫でて「いいこ、いいこ」と声をかけてやったが、彼にその言葉は分からない。パアッと顔を輝かせて何か明るそうなことを呻くが、私に何が言いたいのかは伝わらない。それがすごく歯がゆかった。
政府に何度も、これはバグなのか、バグならいつ直るのか、と問い合わせを送り付けたが、通り一遍の「原因不明。対応を検討する」という返事だけが返ってくる。それはいつなんだろう。いつ対応されるんだろう。対応なんてしてくれないんじゃないか。豊前が折れるまで。
豊前は喋れようが喋れまいが出陣したいのは変わらないらしく、いつも実力より少し上の戦場を指さしては目を輝かせる。腕を掴んでぶんぶん振られては仕方がないから、豊前を隊長にして練度の高い刀たちを供に送り出すけれど、いつか折れてしまうんじゃないかと気が気でなかった。だって不具合によって豊前は喋れないのだ。ならば、不具合によって隊長にした刀が折れてしまったとしても、それはおかしくないことのように思えた。
私は怖かった。たぶんそれは独善的なものだったけれど、豊前を出陣させた日、私は必死に信仰もしていない神様へ祈っていた。ああ、あの無垢な命が、不具合なんかで散りませんように! 神様にとって、どんなに都合のいいものであったか図り知ることはできない。状況の違いはあれど、他の刀をここまで心配することも無かったのに。
そんな日々が二週間ほど続いたある日、帰還した豊前たちを出迎えた私の視界が、一瞬真っ黄色に染まった。
「りいだあ! 近い、近いです!」
慌てた篭手切の声が聞こえて、鼻腔をくすぐる甘い匂いと共に視界が明瞭になる。何かをこちらに押し付けようとする豊前と、その腕を引き戻す篭手切。未だぼやけるほどの近距離にあるのは、たぶんタンポポの花束だった。
「主に、どうしても渡したいのだと」
少し仰け反って花束を受け取ると、豊前は今まで見たことがないくらい嬉しそうに笑って、ぬいぐるみでも抱っこするみたいに私を抱き締めた。
「え」
驚いたなんて生易しいものではない。慌てて離れようとしたが、刀剣男士の力に敵うはずもない。
傷付けないよう気を遣いすぎて、ほとんど触れるだけの手が背を撫でる。同時に、何かもにょもにょした温かな声が降ってくる。
ようやく、頭が回り始めた。そして、帰還する彼らのことを、私はどんな顔で出迎えていただろうか、と考えた。
力加減の分かってきた豊前の手が、いいこ、いいこ、と私の背をさする。へとへとで帰ってきたとき、出迎えたのが自分よりずっと顔色の悪い人だったら、誰が嬉しいだろうか。どんなにか心配をかけていただろう。心配する言葉もかけられぬこの刀に、どれほどの心労をかけさせていただろう。
「り、りいだあ」
突然泣き出した私にぎょっとして、篭手切が豊前を引きはがそうと手を伸ばしかける。が、私がぎゅうと豊前にすがりついたのが分かると、黙って手を下ろしてくれた。
この日も豊前は中傷で、きっと傷は痛んだはずだし、骨も軋んだはずだった。それでも彼は私の背を撫でさすってくれていた。
リボン結びが縦になってしまっている花束は、もう既にへにゃりとくたびれてしまっていたが、けれどもそれ自身が太陽だった。真昼の空に輝く太陽の一欠片を、タンポポにして連れてきてくれたのだ、と思った。
その日以来、彼は出陣のたび、何か花を摘んできてくれるようになった。ツユクサ、サクラ、コスモス——シロツメクサで花冠を作ってくれたこともあったし、手のひらいっぱいのルリカラクサをぱっと舞わせてくれたこともある。こんのすけにこっそり、歴史への干渉ではないのか、と聞いたことがあるが、花の百や二百、消えたところで誤差らしい。
ほっと胸を撫で下ろして、私は彼のくれた花を、一つずつ押花にした。辞書やら政府配布のやたら分厚いマニュアルやらで押し付けると、彼女らは彩度と引き換えに永遠の命を手に入れる。
乾いた彼女らを白紙のコピー用紙に挟んで、クッキー缶の中に入れていった。彼がひよっこと呼ばれなくなる頃には満杯になってしまうだろう。小さなタイムカプセルのようなものだった。時たま取り出しては、永遠に閉じ込めた低彩度を紙ごしにそっとなぞる。
「主」
手元のクッキー缶が暗くなる。後ろから抱きすくめられて、身体が強ばった。
知らない声だ。誰ですか。震える声でそう聞くと、返事の代わりに目の前に現れたのは、四葉のクローバーだった。
「わりぃ、遅くなっちまった」
——そのときに私は、たぶん初めて、神様を信じた。
「——ぶぜん?」
「……おう。郷義弘が作刀、豊前江だ。……俺のこと、見えっか?」
振り返って、顔を見て、その喉仏が、正常に上下しているのを見て、私は彼に抱きついた。お、おい! と困惑する声が耳朶をくすぐる。
「っはは、やめろちゃ、こちょばいけ」
そう言いながらも彼は私を抱き締めた。よく晴れた日の花畑のような匂いがした。それでもって、いいこ、いいこ、と背中をさすられるものだから、また涙が溢れてくる。泣き虫だなあ、と笑う彼は、ひどく優しい声音をしていた。知っている声だった。喋れようが喋れまいが、ずっと彼は彼だったのだ。当たり前のことがどうしようもなく嬉しくて、抱き締める力を一層強くした。
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なんてこともね、ありましたね。
心の中で回想を締め括って、ぱたぱたと白紙の群をまとめていく。数ヶ月分に及ぶ二つ折りのコピー用紙は、内側にはさんだ永遠の命をしっかりと守っていた。さらっと見ただけだが崩れてしまったものは無さそうだ。
結局、豊前がどうして言語を失っていたのか、どうして突然回復したのかは、分からない。まあ不具合だったのだろうということで話は終わった。
一番上の紙にはさまれていたのは、四葉のクローバーだった。小学生の頃は校庭の隅に群生する三葉の中から懸命に探していたものだが、その原理は、三つに分かれる予定の葉の原基が、踏まれて傷付き四つになってしまったのだ、と知ってしまえば夢の無いものだ。
それでもこれを、幸運の象徴として受け入れることのできるくらいには、大人になった。歳を食ったということだ。老いなど関係ないという顔をしておいて、明日死んでしまうかもしれない刀たちや、白紙に潜められた押花たちの中で、私だけが。
「主。入ってもいいか?」
襖の向こうから声をかけられる。どうぞ、と返すと二段階に分けて開けられた襖からは豊前が顔を出した。私の手の中の四葉のクローバーを見て、はっきりと目がまんまるになる。
「うおっ?! もしかして……俺があげたやつか、それ」
「あ、よく覚えてたね。もうウン十年前なのに」
「まだ数十年前じゃねーか」
なんか照れんな、と言って豊前は頭をかいた。その行動に大して意味が無いことは、知っている。
豊前が話せない間、くれた花の花言葉はばらばらだ。頭が空っぽになってしまう私は、毎度花言葉をこっそり調べて、落胆する。ただ綺麗だから、あげたいと思ったからくれたものに意味を求めることほど、無粋なものはないのに。
四葉のクローバーには様々な花言葉がある。復讐、なんていう恐ろしげな花言葉もあるが、一般的には、幸福、とか、約束、とか、明るいものが多い。
たぶんそれも、彼は知らない。
「ねえ、豊前、手紙書かない?」
「て、手紙? なんで急に……?俺、字が多いの苦手なんだよな……」
一言だけでいいよ。白紙じゃなければ、それでいい。
言い訳のようにそう付け加えると、「じゃ、いつか、な」と彼は笑った。
彼はきっと知らないのだと思う。私が無神論者の現実主義者であったことも、四葉のクローバーがもうひとつ、私を思って、と切な花言葉を持つことも。
「きっとよ」
眩しい彼に四葉の押花を翳した。が、彼の髪に飾ろうとした瞬間、それは崩れて、吹雪のように散ってしまった。
ただ、それを見ていた。