ライク・エスケープ
喧騒。わやわやと扉の向こうがうるさいのを尻目に、ブサカワな猫のあしらわれたマグカップに口付けた。角砂糖とミルクを入れたはずのコーヒーだが、深煎りすぎて何も打ち消せていない。
「ねーえ、一文字センセ。私、文化祭ってばかだと思うの」
「ばかなこと言っていないで、さっさと戻りなさい。高校最後の文化祭だろう」
「だってぇ」
角砂糖の容器に手を伸ばす。スティックタイプの砂糖を置かないあたりが、一文字先生だな、と思った。利便性より浪漫をとる。衛生面からか、ミルクはよく見る個包装のやつだったけど。
「だっても何も。お前さん、友達とかいないのか」
「いーますって。一文字センセーと違うんだから」
「んん? 言うようになったじゃないか、小娘」
「あ! 体罰しようとしてる! たすけて教育委員会!」
一文字先生は嫌そうな顔をすると、誤魔化すようにゴホンと空咳をひとつして、自分のマグカップ——ホッキ貝のキャラクターが印刷されている——を口元に運んだ。眼鏡(老眼鏡?)が曇る。先生の砂糖とミルクの量は、私の約三倍だ。成人病まっしぐらドリンク。深煎りじゃないのにすればいいのに。
「兎に角、ここにいるのはやめなさい。ここにいたってちっとも楽しくないだろう」
「ここがどんなにつまんないところだって、外に出るよりまし」
「まったく……」
顔に似合わず無骨な手がマグカップを置いて、今度は隣にあった書類をとった。ここからでは文字が小さすぎて読めない。
「仕事なんてしないでよ。文化祭なのに」
「おう、お前さんがそのドアを開けて外に出ていってくれれば、すぐさま華胥の国に遊ぶとしよう」
こちらを見ずに言ってのける。ふーん。私は言われた通りドアを開け、歴史科準備室の外に出て、後ろ手にドアを閉めた。三秒待って、その扉に向き直り、開けて、入る。
「失礼しまーす」
「お前さん。僕はとんちを利かしてほしいわけじゃあないぞ」
先生は起き上がりながらそう呻いた。この短時間で眼鏡を外して、ソファーに転がったらしい。手品を見たいわけでもないんだけどなあ。
伸びをしてぴちりと張り付いた布越しに、鍛え抜かれた上腕三頭筋が見える。担当教科は日本史のくせに、この人はどうしてここまで鍛えているんだろう、といつも思う。
閉められたカーテンの隙間から漏れる光に照らされて、先生の髪が机に細い影を作った。きらきら、ゆらゆら、もやもや。蜃気楼みたいだ。存在までもが。
「入るのか、入らないのか、どっちかにしなさい」
欠伸を噛み殺したような声が聞こえて、はっとドアノブから手を離す。障害物を失ったドアは、思いの外ゆっくりと閉まって、カチャンという音と共に光源は窓のみとなった。この部屋はいつも暗い。遮光でないカーテンから、薄く差し込む陽光ぐらいしかない。
鍵を閉めてしまえば二人きりの世界だ。ずかずかと部屋に乗り込み、先程まで自分が使っていた席に座った。少し離れただけで、知らない人の体温になってしまったみたいだった。
「で、『ばかだ』ってのはなんだ。僕は一応ここ二週間、ぐしゃぐしゃの髪で東奔西走する生徒だったり、寝る間を惜しんで書類を仕上げる同僚だったりを見ていたんだが」
「だから、それがばかなんだって。手間と労力ばっかりのこんな行事、やる必要ある?」
「あるさ。大いにな」
ありありのオオアリクイさ。余計なダジャレが付け足される。黙ってればイケメン、と陰で女子生徒に評されるのは、これに由縁する。
「青い春ってやつを大切にしなさい。大人になっても勉強やら運動やらはできるが、同じ愛を共有するってなると、なかなか難しい」
「じじくさ」
「うはは! じじぃだからな」
「何歳なのほんと」
「ひい、ふう、みい……ざっと八百歳ってとこだな」
「八百比丘尼じゃん! やば」
フランス人形のような見目の男。人魚の肉を食べたか、あるいは足を手に入れた人魚と言われた方がしっくりくるかもしれない。
「そんな大層なもんじゃあないさ」
十三年前にこの学校に来て、生没年は不詳。明らかに日本のルーツではないだろうに、出身地を聞けば岡山と答え、生みの親は正真正銘日本人であると言う。十二年変わらないアルバムの写真と、暗い準備室とで、吸血鬼説も出ている。
「吸血鬼ならさっきの光で死んでるか」
細い陽光に照らされながら、先生は今度こそ大きく口を開けて欠伸をした。欠伸をしていても様になる。天は、いったいどれほどに彼を愛したのだろう。
ぼすんと先生がまた後ろに倒れこんだ拍子に、山と積み上げられた書類がざらざらと雪崩を起こしていく。その上に置いてあった眼鏡も流れてきた。先生はそれを億劫そうに見ているだけだった。
私は優しいので(本当に優しすぎて困るほど優しいので)それを拾ってあげると、先生の寝転がる足元に立った。が、そのままこれを渡すのも、なんだか遊びが無い気がする。
「えいや」
「ゔっ」
先生の上に倒れ込み、柔らかな髪をのけて眼鏡を差し込む。レンズの向こうで金色のまつ毛がゆっくりと瞬くのを見た。ずるい。コームで梳かして、ビューラーをして、ちゃんとマスカラ下地を塗って、その上からマスカラをしたって、こうはいかない。
「当たってるぞ」
「当ててるんですぅ」
「とんだ不良学生だ」
「勃ってんじゃんロリコン教師」
無遠慮な視線が胸元に注がれた。先生が私ごと上半身を起こすと、私は先生の上に座ったかたちになる。なんにも言わないまま口付けをした。さっきの糖尿病まっしぐらコーヒーのせいで、だいぶ甘ったるくて、少しだけ苦い。レモンの味、とは回数も中身も程遠くて、それがちょっとだけ、ほんのちょっとだけ恋しい。
私と一文字先生を唯一繋ぐ銀糸が、垂れて落ちてぷつりとちぎれる。先生ははあ、とため息をついて、わしゃわしゃ頭をかいた。
「やれやれ、結局こうなるから嫌だったのに」
ドアの向こうを喧騒が通り過ぎていく。遠くのスピーカーは椎名林檎が人生の飽っ気なさを謳っていて、そこでも私は若さを無駄にすることを責められていた。
ぷつぷつとブラウスのボタンが外されていくのを目で追ううちに、この美しい人の左の四番目の指は、ずうっと空っぽなことを思い出す。埋まることはないんだろう。それこそ、一千年後にだって。
「でもゴム箱単位で置いてんじゃん。キモーい」
「口を慎みなさい。紳士の嗜みだろう」
「うそばっかり」
首筋に柔らかな口付けが落ちる。リップ音と共に胸元へ下っていくにつれ、だんだんと声は上擦っていった。ふわふわと金糸の跳ねる頭を緩く抱きしめ、溢れた髪にそっと手ぐしを通す。
「ねーえ、一文字センセ。私、大人になって思い出すのは、センセーのことだと思うの」
彼は一度愛撫をやめて、私を見た。
どうだかな、と低く掠れた声がする。妙に自信なさげ、というか、そうでないことに自信ありげなのは、きっと彼自身がそうでないからなんだろうな、と思った。
心のあたりに赤い花を咲かす彼を見ながら、そんなことばかりを考えている。口付けをねだれば、小鳥みたいなキスをひとつ。