枯独

—— 抜さに

 ばり、と闇夜に似つかわしくない音が響いた。思わず動きを止め、誰かこちらに来やしないかと耳を澄ませる。二十秒。負けじと鳴き始めた蝉の合唱しか聞こえてこない。誰も気付かなかったらしい。
 胸を撫で下ろし、続きに手をかける。本日の縦横比五対六の難敵は、『プレミアムカラー花火!DXセット〜夏の思い出・極〜』である。

 野生動物の気分で慎重に剥がしていくのに、どう気を付けていてもどこかしらで失敗するのはみんな同じなのか、それとも私だけにかけられた呪いなのか。後者だったら許さない。目には目を、歯には歯を、地味で陰湿な呪いには地味で陰湿な呪いを。今まで私が包装を開けようとして失敗した回数と同じ回数分、明日からくしゃみが出そうで出なくなる呪いをかけてやろうと思う。
 先程の倍は丁寧に開けたおかげか、その後は大きな音が出ることはなかった。ほうと息を吐いて、小袋の貼り付けられた厚紙に手を伸ばす。

「おや、主さま」
「はいっ!!」

 腰かけた縁側からだいたい一寸、滞空時間はコンマ一秒。飛び上がった腰を地上に戻して口から飛び出しかけた心臓を飲み込んだ。

「……ッびっ、っくりしたあ……抜丸かあ……」

 八時方向を振り返ると、素足で立っていたのは、赤髪の美しい少年だった。ぎらつかない赤が灯篭の明かりに薄く濃淡をつけられて、ようやくこの世に存在するのだと認識できる。血色の悪い肌と、白く細い足首から伸びる、場違いに大きな足の甲。
 当たり前なのに何度も確かめてしまう。この少年は刀の神様だ。

「こんな時間にいったい何を?」
「ええと、まあ、暑いから」

 言い訳にもならない形容詞を述べて、種類ごとに袋分けされた手持ち花火を見せる。抜丸は興味深々といった様子でしゃがみ込んで顔を近付けた。パッケージに印刷された鮮烈な写真が、瞳に映ってハイライトとなり、生命を吹き込む。

「これは、はな、ひ……はなび?」
「あれ、知らない?」

 抜丸はこてんと首を傾げた。

「禿の記憶は、室町のはじめで途切れております故。それ以後に伝わったものは、分かりません」
「あー……なるほど」

 抜丸の行方は分かっていない。分からないものは、物語に組み込めない。
 勝手にしんみりしてしまった。空気を変えたくて、試しに線香花火を渡してみる。抜丸はそれを手折らぬようふわりと両の掌に乗せ、欠けた月に透かしてみせた。

「火薬のにおいがします」
「そうそう。火薬とか金属とかが入ってるのかな。綺麗だよ」
「主さまがそう仰るのならば、そうなのでしょう」

 ——しかし、美しいものを嗜むには、少し騒がしいのでは?
 抜丸はそう言うなり、森の方に手を伸ばし、左から握り込むようにして空を斬った。音が消える。チャックを閉められてしまうみたいに簡単に森は黙り込んでしまって、静寂の擬音すら付けるのがおこがましいようだった。
 これで主さまの声しか聞こえません。抜丸は無邪気に笑った。

「花火も結構うるさいんだよ」
「そうなのですか」
「空に打ち上げる方の花火は、太鼓みたいな音がする。ひゅるるる、どーん、ぱららら、って感じ。これは手持ち花火だからそんなにだけどね」

 地上の蕾が、天高く打ち上げられて、ぱっと花開くのを両腕で表現する。ひゅるるる、どーん、ぱららら。残滓が舞う様を表現しようとすると、流れ星の動きとおんなじになった。きら、きら、きら、きら、てはおひざ。
 抜丸はそっと線香花火を膝におくと、見様見真似で腕をひらひらやり始めた。花火、というより蝶みたいだ。

「打ち上げ花火は、また今度。みんなでやろうね。ほんとは、手持ち花火もみんなでやるもんなんだけどさ」
「では、今日は何故おひとりで?」
「みんなでやるには全然足りないよ」

 少し重みのある厚紙を持ち上げてみせると、抜丸は少し疑問の残る顔で頷いた。まだ花火の儚さを知らないのだ。一見余らせてしまいそうに見えるこの手持ち花火の詰め合わせだって、三人もいればあっという間に無くなってしまう。

「ま、習うより慣れろだね」

 顔に似合わず大きい手を取って、花紙のぴらぴらした方を摘ませてやる。自分の分も取り出して同じように摘むが、チャッカマンが見当たらない。キョロキョロ見渡して何となく思い当たる節があり、少しだけ抜丸に立ち上がってもらうと、その後ろにチャッカマンは落ちていた。
 そのまま同じ場所にしゃがもうとするので、縁側に座るよう促すと、抜丸は素直にそれに従った。音もなく隣が埋まるのを見て、これは近付かれても気付かないなと思う。癖になっているのだろうか。足音殺して歩くの。
 レバーを引っ張れば、カチという乾いた音と共に火が吹き出る。抜丸の喉仏がごくんと動いた。

「あなや……! 主さまは妖術の使い手であらせられたとは」
「妖術じゃないよ。千年後の……うーん、アルティメット火打石みたいな感じ」
「ある……? ううむ、人の子はよく考える……」

 このままだとチャッカマンにまで顔を突っ込みそうだ。手早く二つの線香花火に火をつけ、レバーから手を離す。抜丸は一瞬だけ残念そうな顔をしたが、手元の線香花火がパチパチ火花を散らし始めると、食い入るようにそれを見つめていた。中心の玉から弾き出された小球、そしてさらにそこから弾き出される火花、全てを目で追うので瞳の動きが忙しい。
 やっぱりただの少年のようだ、と嘆息した。毎日毎日、神様だと確信してみたりただの少年ではないかと疑ってみたり、きっと向こうからすれば私の脳みその方が忙しいのだろう。私が鍛刀して、私が顕現したのだから、他の誰が疑おうと、彼の本質が太刀であることに、私が疑う余地は無いはずなのに。

 生まれたとき、とか。

 ぱたぱたぱちぱち飛んでいく火花を見て、彼は何を考えているんだろう。カンカントンと鍛えられているとき、こんな景色を見るだろうか。それともあれは胎児みたいなものだろうか。思い出される記憶なんて無いのかもしれない。

「あっ」

 抜丸が身動ぎした瞬間、光玉はぽとりと落ちてしまった。初めてにしては寿命の長い方だったと思う。土に冷やされ、急速に黒ずんでいく光玉を、抜丸は呆然と眺めている。炭を見て、持ち手を見て、座高の高い私を見上げ、また炭を見つめた。

「枯れてしまった」
「動いちゃったからね。最初にしちゃあ、上出来、上出来」
「そうなのでしょうか……」
「ほら、もう一本取って。火つけたげるから」

 抜丸はかぶりを振った。

「いいえ……いいえ、禿の手にあればまた、枯らしてしまいましょう」
「なに馬鹿なこと言ってんの。まだいっぱいあるんだから、ほら」

 自分の線香花火を揺らさぬよう気をつけながら、小袋をがさごそ手探って新たな一本を取り出す。連れられてもう一本出てきたから、これは次の私の分だ。最低限の動きでぼうと半開きになった抜丸の掌に差し出すが、抜丸は手の動きを観察するばかりで、受け取ろうとしない。

「この禿、樹を枯らすなどお手の物。木枯とも呼ばれました。この手にかかれば、花火を枯らすなど容易いことです。花と名のついたものならば」
「違うよ、線香花火って難しいんだよ。すぐに落ちちゃうの」

 無理やり持ち手を握らせて、チャッカマンで点火する。そこまで介助してやれば彼は大人しく花紙を摘んで、開いた足の間に火花を散らしていた。強い光の前にあっては黒くも見える瞳に、ちらちら光が入って消える。

「ですが、主さまの花は未だ枯れていません」

 抜丸の人差し指が私の線香花火を指すと、身体の動きに合わせて彼の線香花火はゆらゆら揺れる。あ。落ちた。
 抜丸は少し悲しそうな表情をしている。

「抜丸が不器用なだけだよ」

 私の線香花火が寿命を迎えて、首を落とす。盛りを過ぎれば首ごと落ちるのは、椿のようにも見える。
 明かりが線香花火一本分少なくなって、抜丸の表情は上手く見えなくなってしまった。抜丸の二本と、自分の一本とを束ねて、空き缶に貯めた水に浸す。抜丸もやるんだったら、空き缶では口が狭すぎたかもしれない。

「……波の底にも——」

 都のさぶろうぞ、と言ったのだと思う。常よりずっと低く小さく呟かれた声は、私の耳に届くことは叶わなかった。
 抜丸は小袋から線香花火を取り出すと、チャッカマンを手に取って、まごまごした手つきでレバーを引いた。見た目の動きよりずいぶん呆気なくレバーは引かれて、線香花火は光を撒き始める。それを抜丸は、生きたまま缶の中に突っ込んだ。当然、じゅ、と音がして、光は絶命する。

「抜丸?」
「弥生の海は、冷たかったでしょうか」

 そんな時期に海開きをしているのは、日本では沖縄ぐらいだ。地球温暖化も一切叫ばれない一千年前の海が、当時、どれほどの慈悲を有していたかを知る術はどこにもない。
 今度は先ほどより迷いなく、でも一度レバーの位置を間違えてから、抜丸はチャッカマンの火を点けた。そしてその先端を突っ込もうとしたのは、花火の突っ込まれた缶だった。

「ちょ、ちょっと!」

 慌てて取り上げると、抜丸は気だるげに視線を寄越した。そのままチャッカマンに近い方の手首を握って、チャッカマンを取らせないようにする。簡単に取り上げることができたのは、簡単に手を捕まえることができたのは、彼が意図的に力を弱めたからだ。

「危ないでしょ! だめ!」

 蘇芳色から、縹色まで、葡萄染の虹彩はぼんやりこちらを見ている。ゆらゆら。ゆらゆら。ふ、と視線が逸れると、抜丸は小さな声で、いけません、と言った。

「主さまを枯らしてしまいます」
「どういうこと?」
「お離しください。このまま触れていては」
「あのねえ、私のこと、なんだと思ってるの」

 抜丸は目を伏せる。落ちた陽の先に、捕まえた手首がある。

「人も樹も、変わりません。木枯の言う戯言です。されど、付喪神とて神の端くれ。それ故、言霊も力をもつやもしれません」
「今までだって、何回も手入れで触れてきたでしょう」
「ですが」
「大丈夫だってば」
「……」
「っなんなら教えてあげようか、私の名前。私も植物なんだよ。植物の——」

 ——唇を何かが優しく押さえつけた。
 指だった。抜丸の指。確かに体温があるのが分かって、でもきっと、私よりは少しだけ低い体温。それだけで口の動きがピタリと止まった。言おうと思っていたはずのことが解けていく。

 ——今、何を言おうと?

 ばくばくと心臓が早鐘を打ち始めた。指先が足元が急速に冷えて、力が入らなくなっていく。
 私の大切なもの。私だけの唯一無二。私の生まれて生きている証。奪われたらいけないもの。奪われたら取り返しのつかないもの。
 どうして。どうして言おうとしたんだろう。どうして何も疑問に思わなかったんだろう。雰囲気に飲まれてしまった? 抜丸が止めてくれなければ、私は、己の真名を叫ぼうとしていた。

「ぬ、けまる」

 抜丸はいつもと変わらず微笑んでいる。絶句する私が正気に戻ったことを確かめると、そっと唇から指が離された。取り上げたチャッカマンは優しく奪い返されて、虫のような足音で縁側に置かれる。

「ごめん、ありがとう。私、どうかしてた」

 掴んでいた手を解放する。肌が青白い。私が掴んでいたせいだろうか。元から、こんなにも青白かっただろうか。生気をひとつも感じられないほどに。
 と、今度は抜丸が私の腕を捕まえた。律儀に七分丈の袖の上から、けして直接に触れることのないように。そのままぐいと引き寄せられ、顔が近付く。
 黄昏時の海の色が目の前にあるのが怖くて、でも瞼を降ろすことができなかった。彼は私を抱き締めるみたいに手を背中に回して、そして、唇を耳に寄せた。

「██」

 人の耳は都合の良いようにできていて、雑音の響く会議室で発言者の声を聞きとることができるし、雑踏の中で自分の名前を聞き分けることもできる。一番心地よく聞こえるのは自分の名前で、会話の中で名前を呼べば呼ぶほど、好感度が高くなるなんていう論文もある。名前があるということはこの世に存在するということの自証で、名前を呼ばれるということはこの世に存在するということの他証だ。
 必要不可欠なんて言葉では表しきれない重要性を持つこの固有名詞において、不安、定、な人類は、他証無くしては生きてはゆけない。

「……ふ」

 吐息だけで笑って、抜丸は離れた。呆然と己を見つめる目の前の憐れな女を、幼子でも眺めるように見守っている。
 なんで、と呟く声は、戻ってきた蝉の声にかき消された。ぐわんぐわんぐわん。映画でよく見る、現実を突き付けられた証みたいに、お口のチャックをやっと開けられた油蝉の合唱が響いている。
 ——いや、違う。私はこの術を知っている。
 審神者なら誰でも知っている。審神者なら誰でも使える。審神者になるための研修の、初期の初期に習うもの。目に見えぬ透明な檻。あるいはシェルター。人ならざるものから身を隠すためだとか、身を守るためだとか、そういった目的で必修の、簡易的な、ただの結界。
 それを神様が使ったらどうなるか? そもそもが神様の使っているものを、簡易化して、劣化させて、ようやく矮小な人間が使えるようになった結界を、神様が、即席だとしても、神様の力を用いて張ったら?
 蝉は黙ったのだと思っていた。神様の不思議な力は便利なものだと思った。でもそんなわけなくて、抜丸は蝉を黙らせたのではなくて、森ごと結界を張って聞こえなくしたわけでもない。他でもない私たちを、『ちょっぴり』空間から切り離しただけ。

「主さま」

 抜丸の声は依然優しいままだ。なのに、いつもの微笑みでこちらを見つめる目は、あんまりにも孤独だった。

「冗談ですよ」

 彼は優しいのだろうか? 臆病なのだろうか? 己が欲、刀剣男士という本能から生まれる欲を希求せず、捕らえた蝶を自由に飛び立たせてやる優しさと、殺した蝶を展翅できない臆病さは、どこが違うのだろうか?

「っ、抜丸はさ、」

 自分の声が酷く震えているのが分かった。口の中がカラカラで、生唾で潤すこともできない喉が何度もつっかえて言葉が出てこない。

「抜丸は、私をどうしたいの」

 ばつんと切られた赤銅色の髪。吸血鬼ですと言わんばかりに白い肌。文庫本四冊分くらいしかない薄い肩。若鮎の握り心地と変わらない細すぎる手首。その全ては私より弱々しく見えるのに、私が彼より優位に立つことは有り得ない。

「……しませんよ。神隠しなど」
「嘘。私の真名、握ってるくせに」
「禿に隠そうとしても無駄ですから」
「答えになってない」

 緩く弧を描く口が、一瞬真一文字に結ばれて、またしなやかな曲線となる。良く言えば上品な、悪く言えば底の見えない表情を見つめ続けると、彼はやっと目を逸らした。手を握っては開いて、握っては開いて、己に笑みを貼り付けているものの正体を探っているみたいだ。
 灯篭に蛾が飛び込んで、じゅ、花火と同じように灰になった。触覚から羽の先まで燃えてこの世から消えてしまう。彼にとって、蛾と蝶は同じようなものなのかしら、と思った。

「……ただ、この栄華がいつまでも……続けばいいと…………」

 紡がれるにつれ小さくなっていく声に合わせて垂れるこうべは、しだれ桜のように見えた。赤銅色の花弁を零すしだれ桜。揚羽蝶の涙に染まったそれが、ひと房ずつはらりはらりと落ちていく。

「分かっております。盛者必衰の理からは、栄華のさらに上をゆく主さまとて、逃れることは叶わないでしょう」

 抜丸は右の手で左手首を抱き締めていた。私の腕を掴んだときの力など比ではなかった。ギリギリと音のしそうなほど強く握られて、指先が紫になりかけている。

「でも、いやではありませんか。恐ろしくはありませんか。どんなに栄えようと、いずれ、それは衰えてしまう……」

 死後硬直みたいに固まった指を、小指から一本ずつ解いてやる。一本、二本、三本。人差し指が一番の強敵で、親指との二本だけでも難なく指先を紫に染めていた。やわやわと揉みながら温めてやると、ほんの少しづつそれは解けていって、それでも抜丸はその手を離そうとはしなかった。

「いやです。我は、いやです。いやですよ……この世は盛者必衰、諸行無常、神から与えられしその理が、いやです」

 ぽつぽつと駄々を捏ねる姿を見て、私は初めて抜丸という刀の本質に触れた気がした。私の何百倍もの時間を過ごす神様は、きっと変に大人にされてしまって、きっと変に子どものままになってしまったのだ。
 ようやく人差し指までもが外れて、強ばったままの右手は油の切れたブリキの人形みたいだった。真っ白な月明かりより、少し暖かい灯篭の光の方が強いらしい。照らされる抜丸の横顔は、いつもよりほんの少しだけ血色よく見える。

「いっそ、どこにも行けぬよう……」

 腕が、逡巡しながらこちらに伸びかけて、私の首に触れる一センチ手前でひどく狼狽したように震えた。
 右腕と視線を徐に墜落させて、彼は自身を嘲笑っているらしかった。何度も何度も内番着の袖を引っ張って伸ばして、禿の証の内側に閉じ込めようとしているみたいだ。
 袖を軽く反対側に引っ張ってみると、抜丸ははたとこちらを見上げた。瞳が所在なさげに揺れるが、私がなんにも言わないので、おそらく私を呼ぼうとした——その唇を、そっと奪った。唇を押し当てるだけの簡単なもので、それなのに目を閉じてしまったから、抜丸の顔は見えなかった。
 彼は驚くんだろうか。目を見開くことがあるんだろうか。それとも目は瞑っていてくれるんだろうか。見ないでいてくれるんだろうか。
 薄皮一枚先の体温が離れると、抜丸が、ああ、と絶望とも恍惚とも取れるような吐息を漏らして、私はやっと目を開けた。掌ばかりが熱くて、心臓が大きく跳ねては縮こまってを繰り返している。

「酷いお方だ」

 彼はそう零し、目を細めて微笑んだ。手を伸ばすと、一生懸命つくった泥団子でも触れるような手付きで頬に誘導され、いつも通りの体温が優しく擦り寄せられる。
 あたたかな神様は、生命線のあたりに口付けると、ぐいと腕を引き寄せて、今度こそ私を抱き締めた。ぐしゃり。崩れた重心を補完した手が、花火の袋を踏む。同時に、灯篭のあたりを舞っていた蛾が、また火に飛び込んだ。じゅ。光に焦がれて、縋りついて、焼け死んでいくのを、横目に見ていた。
 抱き締める力は強くなるばかりで、このままいけばいつか骨が折れてしまうんだと思う。彼は、蝶の羽を通してその脆さを知っているはずだった。けれどもそれを知った上で、実行するかどうかは、彼の心に委ねられていた。
 腕の下でまたくしゃと音が鳴って、たぶん袋の中身もぐちゃぐちゃだった。なんでもかんでも億劫になってしまって、私は肩に顔を埋め、なんにも見ないようにしたのだ。

2023/08/30 by みぐしら