窒息

—— 実さに

 ぱちぱちと音がする。カーテンコールの拍手というのは、きっとこういう音なのだろう。でもそれはアンコールと呼ぶにはばらばらすぎたし、そもそもアンコールという行為は、されるということを前提に準備しているからできる行為であって、今ここでされたところで、何の準備も度胸も希望も無い私は途方に暮れるだけだった。
 汗が背を伝うのを感じて目を開けると、もう火の手は部屋をぐるりと覆うように回っていた。世界のそこかしこが赤くて、ステージに立ったことなんて小学生きりだけれど、下ろされた緞帳の裏地も、確かにこんな色をしていたことを思い出した。

「君は」

 低くて柔らかい、真夜中十二時の振り子時計みたいな声がする。暗い灰の色をした髪の毛の先はここに来る間に融けてしまったらしくて、さらに短くなった耳上が、ぱさぱさと子犬のように跳ねていた。数奇な運命と言うべきか、はたまたこの世に日出でし頃よりのさだめだったのか、最期を共に過ごすのは遠征に出した初期刀ではなくて、織田、そして豊臣の最期を見届けたこの刀のようだった。

「君は、こわくないの」

 黒い戦闘衣装のせいで分かりづらくなっているが、ネクタイごと真一文字に切り裂かれた腹からは、熟れきった桃の色をした腸が飛び出している。いつどこで誰がどう見たって重症で、それが審神者なんかであれば折れてしまう寸前、あと一歩をギリギリで持ち堪えられているだけだって分かるのに、私にそれを直す力はもう残っていない。

「怖いよ。でもあなたがいるから」

 彼の目がちいさく見開かれる。口角が火傷の痕ごと少し持ち上がると、ふわり、花びらが一枚舞った。
 遠くでどおんどおんと二回続けて地響きがしたから、きっとどこかが崩れたのだろう。なけなしの霊力で張った不完全な結界は早くも破れかけて、熱気をもう完全に通してしまっていた。ここもそろそろ危ないんだろう。かと言ってここ以外に逃げ場なんて無かった。ため息を吐いてみても状況が好転するわけがなくて、それを知っている分、私は少しだけ冷静だった。
 彼はひらひらと火に入ろうとする花びらを右手でつかまえて、左手ではらわたを押さえながらこちらに来ようとした。ずるり、ずり、腸が畳を引きずっている。

「っだめ」

 思わず駆け寄ってズタボロの体躯を抱き留めると、べちゃという嫌な感触があった。彼の身体のどこを無作為に触ったとしても、おそらくこの感触が待っている。
 そんな状況なのに、彼は本当に、本当に嬉しそうな顔で笑って、右手を私の頭に伸ばした。指で優しく押し付けられたのは、先程舞った花びらだろう。器用に血を糊にして、簡易的な髪飾りが悼んでいる。

「うん、似合う。君には花が、本当に似合うね」

 福島みたいに名前に詳しいわけじゃないけれど、と自嘲しながら、はらり、はらりと次々に花びらを零すが、その腕は小刻みに震えていた。そっと持ち上げて、たこだらけの大きな手に頬擦りする。熱せられたこの部屋に比べ、あまりにも冷えている。

「君の手は、あたたかい……」
「寒い? それとも……怖い?」
「……こわくはないよ。ただ、血が足りなくて」

 だから震えてしまうんだ。みっともないかな。武者震いって言った方が、良かったかもしれない。
 それからしばらく、彼は喋らなかった。私が独り言を発したわけでもなかった。結界が侵食され始めている。嘗めるように、ゆっくり広がっていく火とともに、一酸化炭素も充満していくのだろう。ぱちぱち。ぱちぱち。炎が弾けて、火の粉は畳に落ちる前に黒くなった。

「どうしようもないよね」
「あはは」

 両者力なく笑って、彼は目を伏せた。長い睫毛を見つめていると、ぱちりと蛍石がこちらを見る。
 抱き締めてもいいかい、彼は独り言みたいにそう言った。首肯すると、ぐ、と身体を引き寄せられ、腕の中に閉じ込められる。はらわたに触れてしまわないか心配で少しだけ躊躇ったけれど、もう変わらないかと私も腕を伸ばせば、いい匂いがするなあ、なんて顕現したての頃と同じ感想を掻き抱いた。

「本当は少しだけ、こわいかもしれない」

 弱々しい声が耳を擽る。腕の力が言葉の分だけ強くなって、心臓の音が聞こえてきた。どっちの心臓の音かなんてわからないものだ。たぶん二人の拍動の速さに大した違いはないのだから。
 服なんて取り払ってしまいたいと思った。それは性愛でも何でもなかった。ただ鼓動をそのままに感じたくて、そして、彼ならそれをわかってくれると思った。

「焼けて死ぬのはやだな」
「……そうだね」

 肩の上がもぞりと動いた。頷いたのだろう。

「マンガで読んだんだけどね、全身の筋肉が縮れて、それに引っ張られて骨が折れるんだって」
「それは、嫌だね」

 彼はまた、頷いた。また、間があった。それが怖かった。ほんの小さな会話の隙間で、彼は死んでしまうかもしれなかった。馬鹿な私は、拙い言葉と言葉とを繋いで、隙間なんて埋めてしまえばいいんじゃないかと思って、息継ぎもままならないまま喋り始めた。

「中学生の頃さ、給食の時間、どんな死に方がいいか聞かれたとき、老衰って答えてる人がいて、ずるいって思ったの」
「うん」
「だって、そういうことじゃないよ。そういうことじゃないよね」
「そうだね」
「……ねえ、焼死に比べたらさ、一酸化炭素中毒って本当に楽なのかな……本当に眠るように死ぬものなのかな。頭痛とか、吐き気とか、そういうのに苦しんで意識が遠のくのは、気を失うことは、それって、眠るのに近いのかな」
「うーん……」

 ——ねえ、実休。
 怖かった? 本能寺の変と、大坂夏の陣とで、焼けてしまって苦しかった? 火傷って痛い? いや……怖いよね、苦しいよね、痛いよね。覚えていないのかもしれないけれど。きっと怖かったと思う。苦しかったと思う。痛かったと思う。私、火事に遭ったこともないし、火傷だって、一瞬熱いものに触っちゃったくらいで、深い火傷なんて負ったことがないけど、ちゃんと痛かったし、次からはちゃんと気をつけようって思ったの。覚えてる。私ね、光忠に……燭台切のほうね。台所に立つの禁止されてたんだ。危なっかしくて、包丁で手を切りそうだし、跳ねた油で火傷するかもしれないからって。過保護だよね。私だって、一人暮らししてたとき、ちゃんと自炊してたのにさ。揚げ出し豆腐、得意だったんだよ。みんなにも、食べさせてあげたかった。いつか……いつか、みんなをびっくりさせてあげようと思って、いいお嫁さんになるね、とか、言ってほしくて、わ、わたし、私さ、まだ、三十にもなってないの。結婚、とか、まだなの。すてきな人と結婚して、子どもは二人で、毎日忙しいけど幸せで、そんな日が続いてほしくて、家族でいっぱい旅行とか、行ってさ、子どもが独り立ちしたら、旦那さんと二人で、ごろごろして過ごすの。それが夢だった。まだ何にもしてないのに、まだ何も叶えてないのに、ねえ、ねえ、実休。実休光忠。もう、頭がすごく痛いの。スーツ、すごく立派なのに、似合ってるのに、吐いちゃったらごめんね。引き剥がしていいからね。

「そんなこと、しないよ」

 相槌だけ打っていた彼がちゃんと言葉を喋るのを聞いて、まだ生きているのと、話を聞いてくれていたことに、すごく安心した。ひとりぼっちは嫌だった。

「死にたくない、ねえ実休、死にたくない。たすけて、たすけて、たすけてよ、実休」
「ごめんね」

 助けられるほどの実力が無かったことへの謝罪か、あるいは助けられるのに助けなかったことへの謝罪か。でも、僕が薬研だったら、という言葉が肩に埋まったから、きっと前者なのだと思う。
 抱き締める力がどんどん強くなって、窒息してしまうんじゃないかしら、と思った。それでも良かった。それの方が良かった。
 人間の吐息から炭素を一つ減らしただけの、訳の分からない空気なんかより、訳の分からないままに送られているであろう、愛なんかに窒息する方が、あんまりにも心地よかったのだ。

2023/08/03 by 四方八方感謝太郎