越冬
「鶴丸。手、冷たいねぇ」
肩をとんとん叩き、振り返った赤い頬にぷにと指の腹を押し当てると、彼女はくすぐったそうに口角を持ち上げ、苦笑した。
「そりゃあ刀だからな。金物って冷たいんだぜ」
それはそうだけどさ。彼女は俺の手をとって、もにもに揉み始める。人の体温がじんわりと伝わってきて、さらにその温かさが腕を伝って上ってゆく。金物は熱が伝わりやすい。
「冷えると身体が固くなって、動きづらくなっちゃうでしょ」
——きみ、この身体の中身が、臓物なんて大層なものなんかじゃあないってこと、知らないのか。
喉元まで出かかった言葉が冷えていることに気付いて、俺は既のところで押し黙ることを選んだ。心配なんだよ、と付け加えられたからだ。
彼女には按摩の才能があるようだった。されるがままにしていると、だんだんと全身がぽかぽかするような気がしてくる。春、本丸の屋根で昼寝したときのようだ。ぽかぽかのお天道様と、主と、俺にとって大した違いは無かった。
ふと、手の動きが止まる。彼女の視線を辿ると、左手の人差し指——の、付け根に、小さな傷があった。そうだ、そんなものがあった。前回の厨当番で切ってしまったのだ。申告するほどのものではない。が、彼女はそれを労わるように、小さな手で覆った。
「あ、おい……」
ふわりと紅葉の手が離れると、触れられていた部分にじいんと熱が残る。置いてけぼりの手は、 何の面白みも無く、ゆで卵のようにつるりとしていた。少し赤くなっていることだけが、そこに傷があったことの証明だった。
「きみ、道具を使わず手入れをするのは」
「知ってるよ。これくらいの傷なら大丈夫」
手入れ道具は導線みたいなものだ。審神者から同心円状に放たれる霊力を、無駄なく刀剣男士に注ぐために、政府が何十年もかけて開発し、小型化した、人類の叡智。
手入れ道具の開発以降、徴兵可能な人材はぐっと増えた。今の審神者のほとんどは、道具を介さぬ手入れに耐えうる器をしていない。まして、基準値をかろうじて満たす程度の霊力しか持たぬ彼女は。
「春がね。春になったら、鶴丸がいなくなっちゃいそうで。怖いの」
「おいおい、きみは俺がこの本丸で春を迎えるの、何年目だと思っているんだ」
「何年目でも、そう思うよ。鶴はさ、冬を越すためにここにくるでしょう」
おどけて、鶴をかけた冗談を言おうと思ったが、喉に引っかかってうまく出てこなかった。ただ、少し様子がおかしいな、と思った。
「きみ、もっと自分を大切にしてくれ」
冷気に少し赤くなった鼻から、ツウと血が垂れる。ああほら言わんこっちゃない。つい先程まで、第一部隊の手入れを行っていたのだ。無茶でない方がおかしい。
口を塞がぬよう気をつけながら、左袖で鼻を押さえておいてやる。ふがふが間抜けな声で「へいひ」と宣うので、空いた右手で頭に軽く指弾を見舞った。
「いはい」
「そうだ。生きてるんだから」
赤が、白い袖を染めていく。
阿呆だと思った。こんな小さな傷のために。手入れが終わった時点で休ませるべきだったのだ。それを促すのは近侍である自分の務めだった。
大人しくされるがままの姿が、どうしようもなく胸をざわつかせる。何が大丈夫だ。何が平気だ。己の限界を知らないのではない。知っているにも拘らず、それを無視して馬鹿をやるのだから、たちが悪い。
「失礼」
右手の指同士を絡めて握り込む。背に身体を押し当て、なるべく密着するようにして、神気を流しこんでいく。すっぽり覆えてしまう小さな身体は、きっといつもよりは冷えていて、それでも俺より温かかった。どくん、どくんと血潮を感じる。生きているんだ、と思う。ガワだけヒトの形を与えられた俺たちとは違う。人であるのに、人ならざる力を持って、人ならざるものを使役している。
覆われた方は少し寒かったかもしれない。生きた手のひらの熱が全身に伝わっていたから、きっと雪を浴びせられるほどではないと思うが。神気がうまく伝わっていかないのがもどかしかった。俺は今、湯たんぽにすらなれていない。なかなか止まらない鼻血は、そろそろ貧血を心配するほどになっていた。
「ふるはる」
「どうした?」
「たりはい」
「ん?」
聞き返そうとして顔を近付ける。と、左袖が無理矢理に引き剥がされて、首を左腕に絡め取られた。
幼さの残る顔が近付いてきて、ぎゅうと目を瞑る。食われる、と思った。けれど次に感じたのは、戦場に付随しがちな痛みではなかった。つきたての餅のような、柔らかな感覚。それが、唇に触れていた。
そしてふわりと離れた。臆病な視界をやっと開けると、目の前で、夜中、冴えてしまった頭を諦めるように瞼が持ち上がる。彼女は器用に右手を繋いだまま体勢を変え、俺の上にまたがって向き合った。ぬばたまの黒い瞳が、肉欲なんかよりもっと単純な、もっと原始的な欲をどろりと映して、大儀そうにこちらを見据えていた。
「もっと」
「きみ——んっ?!」
今度は小鳥の慰め合いじゃ済まなかった。諌めようと開いた口に、ぬるりと舌が侵入してくる。血が流れ込んで鉄の味がして、顔を顰めてもお構い無しだ。歯列をなぞって、決死の逃避行をする舌を捕まえられる。反射で出た唾液が、ぐちゃぐちゃに混ざる音が聞こえてくる。押しのけようとすれば、再び左手に頭を捕らえられた。胸の間に挟まれた右手がばくばくと拍動を受け取り、指と指とを絡められたまま、情けないくらいに震えていた。
「ん、は……っん、ぅ」
「は、ぅ、んくっ……っん、んくっ、」
そろりと喉に触れると、不規則に飲み込む動作が感じ取れる。女なんかじゃあないんだな、と思った。母乳を必死に飲み下す嬰児のような、ただひたすら生を渇望する、無垢な存在だった。
——俺の神気を取り込もうとしているのか。
状況からしてとうに気付くべきであったことに、ようやく思い当たる。腰を引き寄せ、神気をたっぷり含ませた唾液を上から注いだ。んくんくと懸命に唾液を嚥下する姿は、赤ん坊そのものだ。物足りなさからぢゅうと舌を吸うのであれば、なおさらだった。
「……っ、ん……く、は、」
「んぅ、んむ……んん、ん、……っぷあ」
鼻血が止まったことを確かめて、人中に残った赤い筋を舐めとる。口に残った鮮血とも違う、赤錆の味。
そこで俺は、やっと思い出したのだ。審神者と刀は、互いに薬となる存在であること。同時に、与えすぎれば毒と成り得ること。
「つるまる」
舌っ足らずな声で呼ばれている。酒みたいなものだ。審神者の血も、刀の神気も。
「人もさ、手がつめたいひと、いるんだよ」
きっと、今、この瞬間。俺に向かって、「好き」とさえ言わせることができれば。
きっと、きみを俺のものにできるんだろうな、と思った。
「手がつめたいひとはね、こころがあったかいんだって」
温もりを求めるように、彼女は俺の肩に頭を埋める。だんだんと落ち着いてくる鼓動を右腕に感じながら、俺はその頭を撫でていた。温かい寝息が耳にかかり始めても、動けなかった。
——俺は。
俺は、心を持たされてから、世にありふれた恋の、その一つになりたいだけだった。
——春立ちても、ここから動けないでいたら——俺は、ひとりっぽっちで死んでしまうのかしら。
「……」
ふ、と息が漏れる。俺はそっと、目を閉じた。