救済

—— ngo ki 夢

 ああこりゃ助からねえなあというのは見れば分かるし、正常とかけ離れた呼吸音を聞くまで、長尾は正しくそれを死体だと思っていた。ひゅうひゅう。ごぼごぼ。前者はひしゃげた喉を酸素が通る音で、後者は穴の空いた肺からそれが溢れる音だ。北風と太陽。そんなことを考えた。風の吹き荒ぶ音と、水が沸騰する音のようにも聞こえる。寒かろう。熱かろう。どちらにせよ、目の前の人間は今にも外殻を脱いでしまいそうだった。

「おーおー派手にやられちまってんねえ。立てるぅ? 立てねえか」

 土手っ腹に大穴が空いていた。服の焦げたにおいと、肉の焼けたにおい。腕が2本は入りそうな穴なのに即死でないのは、損傷したと同時に焼かれ、半端な止血を施されてしまったからだろうと思われた。
 すぐに死ねなくて、可哀想になあ。見えているかも分からないが、長尾はその視界に入るように、半死体の前で膝をついた。部下だ。どちらかというと、古株の。祓魔師という職において、生き残るというのはもはや運に近いが、相応の実力はあるはずだった。相応の実力をもたらすための人生があるはずだった。それが一夜にして失われてしまうのは、平たく言えば損失であったし、悲しむべきことに相違ない。
 ひび割れた唇が微かに動いて、掠れた息を押し出す。長尾は、なーに、と返事をした。せんぱい、と呼ぶいつもの口角と、同じだったからだ。

「し、ぬ……ん、です、ね。わたし…………」
「いんやあ? まだ分かんねえぞ? 桜魔のお医者様は優秀だからなあ。俺も昔腕飛んだけどくっついた!」

 せんぱい。震える唇が、嗜めるように長尾を呼んだ。血と涙がこびり付き、ひび割れた目尻が下げられる。
 だいじょうぶ。わかります。じぶんのことくらい。

「……いやー俺それ言って生きてるヤツ四人知ってるからさあ。やめとけってえ黒歴史になんぞお?」

 今度は微笑むだけだった。何を言ったところで死にゆくと覚悟を決めた人の心は変わらないだろうし、彼女が間違いなく死にゆく人だという事実も変わらない。けれども長尾は笑顔を崩さなかった。それ以外に見送る方法を知らなかった。
 部下はごぼっと咳をして、血を吐いた。少しでも呼吸が楽になるよう、隊服の襟を開けてやる。ぷつりぷつりとボタンが外れるたび、彼女と桜魔とを繋ぐ不可視の糸も、ぶちぶち千切れていくようだった。

「せん、ぱい……」
「おん、どーした」
「て……にぎっ、て……くれま、すか…………」
「——……お安い御用よお」

 赤黒く汚れた手袋を外し、傷に触れぬよう注意を払いながら、寄る辺を求めて彷徨う両の手を取る。体温など冷め切ってしまって、赤子のようにふにゃふにゃと揺れる様は、ほとんど亡霊のようだ。長尾はそれを握った。半生体は痛みを覚えるだろうか。もはや光の入らぬその瞳で、何を見ているのだろうか。

「ありがと、う……ござ、い……ます…………」

 彼女はふっと笑った。小さく息を吐いて、それきりだった。ああその笑みはまるで、救済を施す側、聖母マリアのようで、それが彼女の最後の吐息と共に消えてしまったとき、長尾はただ、ただ寂しかったのだ。
 隊服を整え、胸の前で腕を組ませる。顔の汚れくらい拭ってやりたかったが、余分な水も清潔な布も無い。短い黙祷の終わりに謝罪を付け足すと、長尾はゆっくり立ち上がった。足についた土や枯葉を払い落とし、手袋を嵌めなおす。

「ほんじゃあー、いっちょ片付けますかあ」

 弔うためには終わらせねばならない。点々と転がる遺骸が示す怨讐の行き先へ、長尾は走り出した。生臭い風が、慟哭のように木々を揺らしていた。

2024/05/19 by 四方八方感謝太郎