幸福
迷ったけど、結局いつも着ているお気に入りの服にした。別に、特段奮発して買った服というわけでもないけれど。
部屋からリビングを覗くと、オリバーもいつもの一張羅姿だった。似たもの同士なんだなあ、と苦笑すれば、ヘーゼルの瞳がこちらを捉え、そして、ふわふわと頼りなさげに揺れる。口を開いては、何も紡ぎ出さず閉じるを繰り返していた。
「ね、なんでスーツにしたの?」
私がなにか言うとは思っていなかったのか、瞳孔が小さく開くのが見て取れた。彼はまた、口を開いて、閉じてを繰り返すと、今度こそ本当に声を出した。
「お気に入り、だから。そっちこそ、どうしていつもの服に」
私は、うーんと唸ってみせた。答えは決まっていた。
「私も、お気に入りだから。こんな時に気取ったって、仕方ないしね」
オリバーはしばらく押し黙った。大きな手で、顔をカリ、とかく。少しだけ困った時の癖だ。出会った頃から変わらない。
「準備は、もう。俺は」
「私もね、出来たよ」
さっぱりとしたリビングを、舞うように進んでいく。
細かなキズのついた木製のテーブル、キッチンの壁にかけられた赤いミルクパン。長く愛用しているものだけが残った、アルバムみたいなものだ。
「ねえ、オリバー、一曲踊らない?全然ダンスとかわかんないからさ、リードしてよ」
「困ったな。本当は俺から誘うのがマナーなのに」
「別にいいじゃん。どっちからだって」
画面の割れたスマホで、適当に「ワルツ」と入力して検索した。よくわからないメドレーの下にある、子犬のワルツをタップする。
「ショパンか」
「さすが教授。一般教養もばっちりだね」
某教授は顔を顰めた。
「ショパンは、若くして亡くなったらしいよ」
へえ、それは知らなかった、と目を伏せる。嘘だ。知っていた。小学生の頃に読んだ、音楽の偉人について書かれた本に載っていた。今の今、オリバーに言われるまで忘れていたから、知らないのとほとんどおんなじなのかもしれないけど。
お手をどうぞ、お嬢様。オリバーは、私の手を引いて踊り出した。私は彼の大きな足を踏まないよう、酔っ払いみたいに千鳥足で歩くだけで精一杯だった。
「子犬みたいだ」
「お似合いでしょ?」
狭い我が家の中で、オリバーは家具など無いかのように自由に動き回っている。本当に何でもできるんだなあ、と思った。こんな男が、どうして自分を好いてくれるのかずっと疑問だった。結局、教えてくれないままだ。
「私、どうしたらお似合いになれるか、ずっと考えてた」
補語は意図的に省いた。
「お似合い、なんて。どうして君が俺のことを好いてくれるのかすら分からないのに」
「こっちのセリフだよ。オリバーくらいの完璧超人、そうそういない。運転はできないけど」
「身長しかなくない?」
「まあ、確かに高収入ではないかな」
お互い考えることが古いね、と顔を見合わせて笑った。私とオリバーで一緒なのは、こういうときの感覚くらいだ。
「あ」
踵がタンスの足に引っかかって、重心が一気に後ろ側へ逸れる。ガタンと音が鳴って、視界の端に写真立てが倒れるのが見えた。その辺りで衝撃に備えて目をぎゅっと閉じたけれど、思っていたような衝撃はいつまで経っても来なかった。
「オリバー」
目を開けると、ヘーゼルの瞳がここにある。学生時代、欲しくて堪らなかったものだったな、と思い出す。
「危なかったね」
腰と腕に、体温を感じる。ここにあった姿見はずっと前に片付けてしまったが、今もあればダンスの一部のような姿勢になっているんだろう。
オリバーが引き寄せてくれるのに合わせて、彼の胸に飛び込む。柑橘系の香水と、少しの汗のにおいがした。ぎゅうと抱き締める力を強くすると、向こうも恐る恐るといった感じで抱き締め返してくれる。
「ご飯、食べに行こうよ。お腹減った。ビックマック食べたい」
「ダブチがいいな。シェイクも付けて」
「この前店員さんがオリバーのことデカダブチって呼んでるの聞いたよ」
とうとう覚えられたか、とオリバーは顔を顰めた。こんな高身長で顔が良い男のことを覚えないはずがない。
ふわふわと玄関まで歩いて、お気に入りのスニーカーを履いた。とんとん、と踵で地面を叩いて、扉を開ける。暗い室内に慣れた目には、刺さるという表現が適切だった。そのままやたら重いドアを身体で押して開ける。
吸血鬼にでもなった気分の私たちを迎えたのは、麗しき晴天だった。
✳︎
身長の高いオリバーと手を繋ぐと、幼い頃繋いでいた母の手を思い出す。身長や手の大きさの差は同じくらいだろうし、色々苦労していた当時の母の手は、女性とは思えないくらいゴツゴツとしていた。
ぬるい体温が絡んで、どっちがどっちの体温か分からなくなる。まだまだ気温の低い日が続くけれど、手を繋げば意外と温かい。風があると寒いが、そこらへんはご愛嬌だ。
マックのある最寄り駅まで、徒歩十五分。イートインで食べるつもりだったが、結局、家に持ち帰って食べることにした。
私の平々凡々な格好との対比のおかげで、完璧にスーツを決めたオリバーがやたら目立ってしまう。いや、この男はどこにいても、どんな格好をしても目立つ。それは、その高身長や顔など生来の長所ばかりではなく、紳士的な物腰ゆえに、ということも多かった。と思う。
財布に残ったお金を二人で合わせ、帰りに園芸店に寄って、買えるだけのかすみ草を買った。二人分の有り金が大して多いというわけではなかったが、バラやらランやらより安いのも相まって、抱えるほどの大きな花束が二つできた。それをオリバーと私で一つずつ抱えて、周囲に不審そうに見られながら家へ戻った。
胴やら足やらを駆使してドアをこじ開ける。玄関に花束を置いて、リビングのテーブルにダブチ、シェイク、ビックマック、あとコーラを並べる。
「花、花瓶にささなくていいの?」
「まあ、すぐだし。大丈夫でしょ」
「そっか」
時刻はもう、三時を過ぎていた。
洗面所でちゃんと手を洗って、食卓に向かい合って座る。
手と手を合わせて、いただきます。
「うま」
私に食レポできるほどの敏感な舌と表現力は無いが、美味しいものは美味しい。ニコニコしながらダブチにかぶりついているオリバーを見ていると、そちらも羨ましくなってきた。
「一口ちょーだい。こっちもあげるから」
オリバーはもぐもぐしながらダブチを私に差し出した。それを受け取って、一瞬、多少位置を変えてかぶりつくか迷って、結局そのままかぶりついた。まあ、恋人だし。
「んまいね」
「でしょ」
ダブチを返し、代わりにビックマックを差し出す。ガブリと齧りつかれた後、手元にビックマックを戻すと、かなり大きく欠けている。不服そうに見つめても、オリバーはてへぺろ、と腹の立つ顔をしているだけだ。
ナゲットやらポテトやらも食べ終わって、ゴミをまとめて捨てると、テレビの前のソファーに並んで座った。リモコンを操作して、ネットフリックスの画面に変える。
「なんか見たいのある?」
「君が見たいものでいいよ」
「じゃあ、あれ見たい。ディズニーの。美女と野獣。アニメーションの方」
「うん、いいよ、それで」
擦り切れるほど観た映画だ。そのほとんどは、オリバーと観た。次のセリフがどんなものかなんてすっかり覚えてしまったし、どこで盛り上がるか、どこで悲しくなるかもはっきり覚えている。それでも観るのは、これが疑いようのないハッピーエンドだ、とオリバーとの共通認識だったからだ。
クライマックスのキスシーンで、どちらからともなく、そっと、唇に触れるだけのキスをした。まだ少し、ダブチの味がした。オリバーとの初めてのキスって、何味だったっけ。あの時も、ダブチだったような気がする。ファーストキスはレモンの味、とは誰が言ったものか。酸っぱいんだろうか。緊張しすぎた結果出た胃酸だろうか。
「ねえ、ワイン飲もうよ。去年貰った、やたら高いやつ。もったいないけど」
「そうだね。空けちゃおう」
キッチンの隅から、オリバーが昨年誕生日に貰った赤ワインを取り出して、これまたオリバーが昔誕生日に貰ってきた栓抜きで、ぐいぐい力を込めて栓を引っ張りあげる。
が、どれだけ力を込めてもビクともしなかったので、オリバーに任せると、すぐにポンッと音が鳴って、芳醇な香りがした。コルクには二〇一一と書かれている。十年ものらしい。
ボトルを傾けてグラスにワインを注ぐと、ガラス越しに鮮やかな赤が現れた。オリバーの視線も同時にグラスに注がれる。
「いい色してるね」
「美味しそう」
おつまみはチーズをのせたクラッカーとか。本当はジャーキーの方が好きだけど、生憎と切らしていた。残念だが、今日くらいはオシャレなおつまみにしたっていいだろう。
グラスを揺らして、少し香りを楽しむ。開けた瞬間より強いアルコールの匂いが鼻を刺した。ラベルを確認すると、15度とある。オリバーに付き合うと飲むのは大概度数が強いお酒なので、強さとしてはそこまででもない。
「我らの未来に」
「皮肉すぎるだろ」
乾杯。
少しだけワインを口に含み、舌でしばらく弄んで、飲み込む。
「さすが十年経ってると、なんか違うね」
「本当に美味しい。渋いけど、それがまた旨みを引き出しているというか」
語り出すオリバーを横目に、語彙力の差を感じながらクラッカーへ手を伸ばす。本日のお品書きは、十年もののワイン、冷蔵庫から出したばっかりのカマンベールチーズ、ブルーチーズをのせたクラッカー、賞味期限が切れそうなハム。お安いチーズやハムだって、添え物や盛り付けでいくらでもオシャレにすることができる。
「ん〜! やっぱりブルーチーズとクラッカー合う! オリバーも食べてみなよ」
「俺は……いいかな。ブルーチーズ苦手なんだ」
「こんなに美味しいのに」
人生百割損してるよ、とぶうたれると、じゃあナス食べる?と返されるので、慌てて滅相もございません、と姿勢を正す。くは、とほころぶように笑うオリバーの顔は、シャッターを押してどこかに出展すれば、何か賞を貰えるんじゃないかと思うほど綺麗だった。
「なんか付いてる?」
オリバーが口の端を拭った。私は慌ててかぶりを振る。
「見惚れてただけ」
「……君、いつも急だよね」
怒ったような声を出すから、愛おしい。照れてるんだなあ、と思うと笑ってしまって、つられてオリバーも笑うから、もっと愛おしい。
笑顔が好きだな、と思った。この人の笑顔は本当に綺麗なのだ。
「そんなに飲まないでね。酔っ払って力入んなくなっちゃったら困る」
「俺がこの一本くらいじゃ酔わないの知ってるでしょう」
それもそうだね、と苦笑する。
「飲み比べ、なんて馬鹿なことしたこともあったっけ」
「君もなかなか酒豪だよね」
「オリバーには負けるよ」
初デートで行った動物園とか、二回目にして行ったディズニーランドとか、一周年記念で行った目黒寄生虫館とか。思い出話をしながらワインを飲み進めていると、気付けば外はすっかり暗くなっていて、時計は七時を指していた。
ちょうど二人分くらい残ったワインを均等に注いで、最後に小さく乾杯をした。乾いた音が響いて、オリバーの喉の鳴る音が続く。もったいない飲み方するな、と思いながらオリバーの真似をして自分も一息で飲み干した。喉から香るぶどうの匂いが愛おしかった。
「さて」
立ち上がって、玄関へと向かう。花束が二つ。オリバー隣私とで一つずつ抱えて、寝室へ。
束にしている紐を解いて、枕元にかすみ草をいっぱい並べた。ベッドの上にペタンとお姉さん座りをして、ベッドを軽く叩いてオリバーを呼び寄せる。迷ったように、それでも従わねばと、逡巡しながらこちらに来る様子は正に犬だった。
ふちに座ろうとするので、上に乗れとまたベッドを叩く。やっと思った通りの動きをしてくれたオリバーの上に、跨るようにして座った。上に座っても、私の身長はオリバーの身長を越さない。ようやく、同じくらいになる。犬を相手するように鼻先を擦り付けて、筋肉質の身体をぎゅうと抱きしめた。
「お願い、あったら、何でも聞く」
私の肩に顔を埋めながら、オリバーはモゴモゴと言った。
「いっぱいあるよ、お願い。いいの?」
「うん」
じゃあ、と私は指を折って数えた。ひい、ふう、みい。うーん、いくつだろ。わかんないや。
「じゃあ、キスして」
「うん」
少しかさついた唇が押し当てられて、そのまま離れる。
「深いやつも」
「うん」
また、唇が触れて、薄く開いた口に熱い舌がぬるりと侵入してくる。今度は、ワインの味がした。呼吸を奪う。ぐちゃぐちゃと唾液がかき混ぜられて、酸素が足りなくなっても、頭を押さえつけられて息継ぎさせてくれない。アルコールと酸素不足で、頭が回らなくなる。背中を強めに叩き続けて、本当に力が入らなくなった頃、オリバーはようやく私を解放した。
「次は? my love.」
「ちょっと、待ってよ」
いつもは、顔を茹でダコのようにしてゴホゴホ咳き込む私を、オリバーはさも愉快そうに見つめてくる。本当いい性格してると思うけど、今日は、そうじゃなかった。怒ったようで、それよりもずっと悲しげな目で、こちらをじいと見つめていた。
背中を、さすってもくれないんだな。
しばらく咳き込んで、零した唾液を手の甲でぐいと拭うと、スーツの裾をぐしゃと握り潰して次の願いを考えた。
「恋人繋ぎして」
「うん」
「おでこに、キスしてほしい」
「うん」
「キスマーク欲しいな」
「うん」
「手の甲にも、キスしてみてよ」
「うん」
「髪、触らせて」
「うん」
「組長みたいにさ、『お嬢』って呼んで」
「お嬢?」
「次は、騎士みたいにさ『姫』って」
「姫」
「今度は、じゃあ、ぎゅってして」
「うん」
「強く」
「うん」
「もっと強く」
「うん」
「もっと」
「うん」
「もっと」
「うん」
「もっと」
「うん」
「もっと」
「うん」
「もっと」
「うん」
「もっと、」
「うん」
痛いくらい。苦しいくらい。壊れてしまうくらい。
何処にも行かないように。何処にも行けないように。何処に行こうとも思えないように。
オリバーが、私をこれ以上無いってくらい愛してくれてるの、知ってる。初めて恋をしてしまって、それにのめり込んでしまったことも、知ってる。知っていて、こうしている。
オリバーは、唯一なんて知らなかった。皆のことを愛していた。それは今でも一緒なのだろう。万人を愛していて、でも、それでも、どうしたって譲れないという存在の席を、どうしてか私に明け渡してしまった。
本当は痛かった。本当は苦しかった。いっそ壊れてしまいたかった。
「——ありがとう。もういいよ」
こちらが腕の力を弛めると、オリバーの腕からゆらゆら力が抜けていく。
——馬鹿な男だ。
かつての自分と、他人の悩みと、哲学と、優しさとを照らし合わせて。
愛する人の望みを叶えてやることでしか、自分の存在意義を示すことができない。
馬鹿だ。
馬鹿だ。優しすぎて、「生きろ」すら言えないなんて。
「ねえリヴィー、あのね、私、リヴィーみたいに上手くは言えないんだけど」
オリバーの眉が困ったように下げられた。こんな時にも、この男は私が自分を卑下することを嫌がるのだ。
オリバーが口を開きかけるのを制止して、私は呟き続けた。
「私、幸せだったよ」
呪詛のように。
「病める時も、健やかなる時も——隣にいてくれて、ありがとう」
祝福のように。
「私、リヴィーに出会えて良かった」
生きろなんて言わないから。笑えとも言わないから。リヴィーの好きなように、していいから。
アルコールのせいか、先程より体温が高くなっているリヴィーの手に口付けた。結婚も婚約もしてないけど、ペアリングくらい買えばよかったな。一回、買おうとしたんだっけ。お揃いのものというのが気恥ずかしくて、結局買わずに帰ってしまった。
「ねえ」
身体を離し、リヴィーの腕をぐいと引っ張って、そのまま後ろに倒れ込んだ。脱力したままの手を、そっと自分の首に添えさせて、目を伏せる。リヴィーの手が触れている部分から、じわりと熱が伝わってくる。
好きだよ。大好きだよ。愛してる。
ごめん。残酷なことをして、ごめん。
「最後のお願い」
ヘーゼルの瞳を捕らえた。
私の瞳に映るあなたの瞳は、いったいどんな色をしているのか。
少しだけ見せてやりたかった。こんな大の男が駄々っ子みたいな表情をしているのが、あまりにも面白かった。
私ね、ほんとに幸せだったんだよ。嘘じゃない。お世辞じゃない。最期まで本当に良くしてもらってた。わがままもたくさん叶えてもらった。かすみ草いっぱいに囲まれてさ。幸せなんだよ。首にかかる体温が本当に幸せなんだ。そんな顔しなくてもさ。大丈夫だから。あなたならきっと大丈夫だから、だからね、お願い。最初からの、最後の、お願い。
「殺して」
大粒の涙が雨みたいに当たって、二人分の体重にベッドが悲鳴を上げた。
ほとんど力の入らない手が、私の願いを聞き入れることを拒んでいた。私は、リヴィーの手首にそっと手を添えた。次の瞬間、彼の両手は頸を締め上げていた。
✳︎
ねえ。私、どうしたらお似合いになれるか、ずっと考えてた。どうしてあなたが私のことを好いてくれるのか分からなかった。
多分、お似合いになんてなれっこなかった。どんな私であろうと、私が私である限り、きっとあなたは好いてくれていた。前世も。来世も。その次だって。
でも、ごめん。来世からは、私を見つけないで。私を見つけようとしないで。
どうか、幸せになってください。不幸の元凶が、こんなことを言うのは変なのかもしれないけど。
最期くらい、祈らせて。あなたの人生が、幸福で溢れますようにって。
お願い。神様なんかじゃない、あなたへの、お願い。
ありがとう、リヴィー。さようなら。
私はあなたを愛しています。
✳︎
体温が、消えていくのを感じていた。
どうしようもなかった。強ばった手の平が、今も彼女を殺したいと駄々を捏ねていた。
無感動に涙が零れ落ちた。表情ばかりが悲しくて、心はビックリするくらい何も感じていなかった。死んでしまったのかもしれない。強く抱き締めすぎて、手から零れてしまった彼女の命が、俺の心も殺してしまったのかもしれない。
心臓を優しく優しく撫でさするように、彼女の心を愛撫していた。嬉しそうな時はおどけたように。悲しそうな時はただひたすらに優しく。辛そうな時には一杯のココアを。ふざけている時はお姫様みたいな扱いにして。
それでも無理だった。彼女の心を生かすことは出来なかった。ただただ苦しい時間を延命しただけだった。
首からそっと手を外した。手汗で貼り付いた皮膚が名残を惜しむように着いてきて、そして、ぺとりと死んだ。ベッドを降りて、かすみ草を彼女の体にかき寄せる。白い花の首が一つもげて、彼女を悼むように髪を飾った。
花言葉なんてものは関係ないのだ、と彼女は言った。ただひたすら、脇役であるその姿が、パニエのように白く赤や黄を引き立てている。或いは、緑すらも引き立てる対象となる。それが、好きなのだと。花の中で一番、好きなのだと。
彼女はかすみ草と飾りたかったのか。それともかすみ草で飾りたかったのか。さほど派手でもない黒いワンピースに、供花のように眦に引かれた赤いライン。目立つ恰好のように思えるその補色を、彼女はどう捉えた上で取り入れているのだろう。
「 」
名前を呼んだ。声が出なかった。
「痛かった?」
痛かっただろう。喉笛を押し潰すほどの力をかけねば、窒息させることなどできないのだから。
「苦しかった?」
苦しかっただろう。一瞬で骨をへし折ることもできたのに。睡眠薬を飲むことだってできたのに。それでも朦朧と目を見つめながら逝くことを選んだ。
「ねえ」
ねえ。
名前を呼びたいんだ。名前を呼んでほしいんだ。
ほんとうは生きていてほしかった。ずっと一緒にいたかった。辛かっただろう。苦しかっただろう。生きることなんてクソ喰らえだ。生きていて1番辛いことは、きっと生きることに違いないのだから。
逝かないで。お願い。逝かないでくれ。一人じゃ生きられないんだ。何も大丈夫じゃないんだ。ある程度のご飯は作れる。掃除も洗濯もできる。解れたボタンだって自分で繕ってみせるさ。
君が死ぬだなんて思ってもみなかった。馬鹿だろう。もう三十になったっていうのに。こんな子供じみたことを言い張るんだ。それでも想像なんてできやしない。一期一会だとか盛者必衰だとか語る人たちだって、ほんとうは何も分かってなんかいないんだろう。あまりにも自分の全てを占め過ぎていた人を、殺してしまうだなんて。間接的でも、言葉の綾ゆえでもなく、他の誰でもない、己の手で殺してしまうだなんて。
ああ、もう。
もう。
いっそ、とは思わなかった。それは俺がほんの小さな、ただの"リヴィー"だった頃からすぐ後ろにいて、ぴったりくっついていたせいで、あまりにそれに振り回される、憐れな君を見ている間は、全然気付かなかったのだ。
褪せた体温を色で示す唇に、もう一度キスをした。枕に張り付いたくせ毛をそっと撫で付け、整える。徐に立ち上がり、机に備え付けられた棚の、一番下の引き出しを開けた。貰い物のクッキーの缶が残っている。
美味しかったなあ、このクッキー。
クッキー缶を振ると、カラカラと乾いた音を立てた。曲がってしまって上手く開かない蓋をこじ開ける。中には無愛想に、何のキーホルダーも付いていない鍵が入っていた。この棚の一番上の引き出しは、鍵をかけられるようになっている。
そっと鍵穴に鍵を差し込んで、ゆっくり時計回りに回す。底がレールになっている引き出しは、油もささないのにすんなり動いて、手を広げたくらいの大きさの箱が表れた。ぎっちりと重い箱を両手で机の上に移して、慎重に開けていく。
君の声が好きだった。君の歌う恋の歌が好きだった。君以外に恋をしたことのない俺でも、君が歌えばその歌詞全部、体験したことのように思えた。
君の目が好きだった。目を合わせるのが苦手で、すぐに逸らしてしまうところが好きだった。片想いしていたとき、目が合うだけで本当に嬉しかった。
君の髪が好きだった。絡まりやすいと嘆きながら、丁寧に髪を梳く姿が好きだった。食事中、よく髪を一緒に食べてしまっているのが愛おしかった。
君の匂いが好きだった。抱き締めた時にふわ、と立ち上るのが好きだった。甘いけど甘すぎない香りだから、食べてしまいたくなることも多かった。
君の手が好きだった。手を繋いだときに伝わる体温が好きだった。君の体温が好きだったから、冬も好きになれた。
君の笑顔が好きだった。すごく素敵な笑顔をするのに、写真を撮るときに笑えと言われても真顔になってしまうのが好きだった。彼女の笑顔の写真は、不意打ちで撮ったものくらいだった。
君が好きだった。誰よりも大切にしたかった。誰よりも優しくしたかった。何でも言うことを聞きたかった。いつまでも抱き締めていたかった。キスする度に嬉しかった。手を繋ぐたびに緊張した。
君を愛していた。上手く言えないけれど。
君と結婚したかった。そうしなかったのは、きっと君の優しさだけれど。
左手を取り、薬指に口付ける。離した瞬間に引っ込められることも、真っ赤な顔で睨まれることも無い。脱力した腕はベッドに落ちた。温かな死体に跨って、ぐっと手を繋ぐ。
奇しくも、君の髪と、目と、お気に入りだったワンピースと、右手に馴染む、無機質な鉄製の暴力は、光の反射加減こそ違えど、同じ色をしていた。
人差し指にぐ、と力を